首の皮1枚もつながっていないブログ

普通の会社員。毎日を生きています。

2020/02/08「お釣りで人は救えるか」

 いつだったか、「不幸な人が見えてないふりをしながら自分の幸せを追いかける人ってがめつい」みたいなニュアンスの、前から思ってた感情がにゅっと顔を出した。これずっと考えているんだけどまだ答えがよく分からない。

 よく、お金持ちが多額の寄付をする。よく、僕ら一般市民が数万とかの寄付をする。

 こういうときに思うのは、多分金額は違えどお互いの、自分にダメージのない厄災へのアプローチに違いはない。両者とも自分の幸福を脅かさない程度の寄付にとどめていて、まあ、いわば自分の守りたい生活のお釣りを寄付に当てているわけである。幸福のお釣りである。

 例えば世界には貧困な国がある。これはジャコウネコの糞からとれるコーヒー豆で飲むコーヒーが凄く良い香り、みたいな豆知識ではなく、世間にとって周知の事実である。世界中のほとんどの人が知っているだろう。

 だが、みんな贅沢をやめない。僕もやめない。

 20歳まで生きるのが夢だと語る子供や、言葉通り泥水をすする妊婦がいるけど、いつでもコンビニに行けて蛇口から泥水のでない私たちの中にスタートラインを揃えようと思う者はほとんどいない。

 政治や歴史を頭に入れず全くの世界平等な立場で考えるなら、まず国を豪華に発展させることよりも最低限のスタートラインを整えて、せめて誰しも夢を持つことができ、己の努力によってはその夢を叶える可能性があるくらいには世界の環境を整えて、そこから各国々が豊かに発展していくべきだ。というと、あまりにも理想論みたいな雰囲気を孕んでしまうが、多分間違ってはいないと思う。

 つまり、みんな自分が幸せになるカードをとるのが先決で、ほんとのところ知らん国の誰かが泥水すすっていようがいまいが、それはもの凄く優先順位の低いことなんじゃないだろうか。

 誰しも顕在意識では貧困は悲惨でかわいそう、助けてやりたいと思ってはいるものの、実際自分の幸福を切り捨ててまでその暮らしを貧困な人々の生活レベルまで落とし、世界が平らになるまで自分の贅沢を自粛しようとするほどできた人間は珍しい。

 大抵の恵まれた人々はみな悲惨な現状に対してかわいそう、救ってあげたいといった良心によってけじめをつけて、少額な寄付やペットボトルのキャップを集めるなど自らの幸福を脅かさない程度の小さな努力を重ねている。自分の幸福のお釣りを闇夜に投げて、「あとは善人が頑張ってくれるだろう」と、今日も己の幸せを追いかける。
 
 あえてすごく嫌な言い方で書いたけど、でも、これは間違っているんだろうか。幸福追求欲が本能だとすれば、やっぱり仕方ないことなのだろうか。ライオンだって自分の家族を守るのに精一杯じゃないか。ライオンにとって他のライオンはむしろ、競争相手だ。

 ただ、世間へ熱いメッセージを飛ばすロックミュージシャンなんかを見ると、明らかに人を救おうとしているから驚かされる。ブルーハーツなんかそんな感じだ。もちろん偽物もいっぱいいるけど、本物のロックスターはお釣りで人を救おうとしていない。自らをすり減らしながら、ちゃんと地に墜ちながら。分からないけど、彼らの片足を不幸につっこんでいる感じが、僕らに説得力を与えてくれる。

 成功したロックスターがたまに自殺するのは、多分その辺に関係があると思う。ロックは反体制派だ。これまでだるま落としのように等身大の自分を一段、また一段と削りながら伝えていた音楽が、自らに幸福を積み重ねていく音楽になっていっていることを自覚し、俺の音楽はお釣りじゃねえぞ!って、魂なんだぞ!って、そうやって叫んでいた自分と環境に支配され言葉にリアルがまとわりつかない自分に折り合いがつかなくなってしまうのではないか。

 だってそうだろう。高級マンションに住んで、モデルの彼女がいて、コンサートをすれば即ソールドアウト。ファンに「愛してる」といえば会場は沸き、揺れ、気が大きくなり、ステージからメッセージを飛ばす。フィナーレを迎えコンサートは終わり、スタッフと成功を分かち合い、高級ホテルでシャワーを浴びて、彼女を抱いて。そしてファンに、不屈のメッセージを飛ばす。「お前ら一生ついてこいよ」と叫ぶその横顔は、さながらライオンキングだ。そんなロックに、人は救う力はあるだろうか。

 どうだろうか、幸せに両足を突っ込んで、幸福のお釣りの最大値をMAXにすることで社会へ還元していくのが正義なのだろうか。

 最近夢を追いかける気になれないのは、この辺の考えが原因だと分かっている。不幸な人が見えていないふりをしながら自分の幸せを追いかける人ってがめつい。そこまで自分はがめつくなれない、と。